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1988年8月〜

私が身体障害者になったのは、1988年8月、大学2回生(20才)の時です。その時の様子は1988年10月5日付の毎日新聞の記事に詳しくかかれているので、それを以下に引用します。

(1988年)8月1日に北アルプス・雲ノ平(約2,600メートル)で高山病の一種である高所肺水腫で倒れ、意識不明のまま県警ヘリコプターで富山市民病院に運ばれた大阪市B区、大学2回生、Aさん(20)は、治療の結果、危機的な状態から脱して順調に回復、現在はリハビリで体力増強に取り組んでいる。

AさんはC同好会のメンバー4人と薬師岳(2,926メートル)から雲ノ平へ向かっていた8月1日、急に体調が悪くなり、フラフラの状態で雲ノ平山荘にたどり着いた。同山荘でようすをみたが、発熱し意識がなくなったため2日早朝、同山荘からの連絡で県警へりが出動、Aさんを富山市民病院に搬送した。

同病院ではICU(集中治療室)に入り、人工呼吸器などで治療をしたが、動脈中の酸素濃度が健常者の3分の1ほどのうえ、40度の高熱で意識不明の重体が続いた。体内のホルモン作用を活発にするステロイドホルモン剤を投与するなど懸命の治療を続けた結果、4日後に意識を回復、同17日には一般病室に移った。

現在、Aさんには手足の運動障害や視力障害があるものの車いすを自力で動かせるまでに回復。「山の怖さがよくわかった。早く元気になって大学に行きたい」と笑顔が戻ってきた。

主治医の石田陽一内科医長は「Aさんのような重い高山病の患者ははじめて。ここまで良くなったこと自体、奇跡的だ」と話している。

以上の記事のように、体中の筋力が急激に衰え、全身麻痺の状態になり、さらに全色盲になりました。運動障害を直すためリハビリを開始し、車いすに乗れるようになりました。ここから、私の長いリハビリが始まることになるのです。

1988年10月〜

富山市民病院は自宅のある大阪から遠いため、大阪厚生年金病院へ転院することになりました。大阪厚生年金病院の整形外科へリハビリを目的に入院しました。懸命なリハビリの結果、当初は車いすでしたが、まず歩行器で歩けるようになり、次に、両松葉杖歩行が出来るようになりました。全色盲も回復して色弱になりました。そして、1988年12月に、両松葉杖歩行の段階で退院することになりました。その後、大阪厚生年金病院には、経過観察のため、当初は3ヶ月ごと、次に半年ごと、さらに1年ごとに受診することとなりました。経過観察は、1997年8月まで続きました。

1989年1月〜

大学の春期休暇中は、自宅近くの病院へ通院し、リハビリを受けていました。1989年4月から大学に復帰し、JRを使って両松葉杖歩行で通学しました。大阪から京都までの通学(片道約1時間半)は私にとって大変な重労働で、リハビリを兼ねていたと言ってもよいと思います。1989年8月に、両松葉杖歩行の状態で、友人と二人で車で北海道一周旅行をし、大きな自信となりました。1989年秋頃から片松葉杖歩行が出来るようになりました。さらに、1990年秋頃から、一本杖歩行が出来るようになりました。1991年3月に友人と二人で、JRを使って九州一周旅行をしました。これで一人でも、どこでも行けると思えるようになりました。その後、一本杖歩行の状態で、一人きりで金沢や東京へ行ったりしました。1993年3月に、大阪厚生年金病院へ受診したとき、主治医から回復には時間がかかると言われ、身体障害者手帳5級の交付を受けました。この後、一本杖歩行から改善が見られず、症状が固定した状態になりました。

1993年4月〜現在

1997年8月に大阪厚生年金病院へ受診したとき、主治医から症状が固定したので、経過観察にはもう来なくてよいと言われました。現在、一本杖歩行で症状は固定しています。日常生活で不便なことは、屋外では一本杖がなければ歩行できない、階段の上り下りは手すりがないと出来ない、長時間立ち続けることが出来ない、地面に凹凸があるとつまずいてよく転倒する、色弱であることなどです。

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